ナイゲン終了しました&これからナイゲンを演じる皆様へ

遅くなりましたが、ILLUMINUS selection『ナイゲン』終演しました。
沢山のご来場、誠にありがとうございました。

熱心で気の良いキャスト、ナイゲンのことをよく理解してくれているスタッフという、本当にいい座組みだったと思います。

劇団じゃない外部のプロデュース公演でここまで自由にできるのか、ここまで大人の事情抜きで作品作りのことだけ考えられるのか、と少し感動しました。偏にプロデューサーの佐野木氏のおかげです。超ありがとうございます。

歴史の違いはあるけどさ、本人仕様にカスタマイズされた台本じゃないけどさ、それでも、個人的にはアガリスクで何度も上演を重ねたものと遜色ないものができたと自負してます。

そして、この作品の持つ強度を改めて実感させられました。やっぱナイゲンってネタ、強い。
そしてそれを知った上で思うけど、ここまで皆様に気に入ってもらえるとは。
(本当ありがとうございます)

同じ国府台ネタだと『卒業式、実行』の方がコメディとして運用しやすかったりするんだけど、ドシンとした塊としてはやっぱりナイゲンの重さはすごいな、と。
今後の劇作を考える上で、とても良い指針(であり高いハードル)になりました。

っていうことを語ると長くなるから置いときますが。


さて、そんな久しぶりの冨坂演出版ナイゲンが終わったのですが、また別のナイゲンが始まります。
新宿シアター・ミラクルで毎年やっている、劇場企画のプロデュース公演のナイゲンです。

今日、第一弾出演者が発表されました。

また新しいメンバーによる新しいナイゲンが作られていくわけですが。

せっかくなので、ここらで、以前(ミラクルで2016年版をやるときかな?)ナイゲンをやるキャスト向けに配った文章を再掲しておきます。

原理主義者よりナイゲンを演じる人たちへ

以下に書くのは、「作者の冨坂友はこう思って書いたよ」という私見です。野暮ですが書きます。
上演の方針を決める権限も責任も演出家にあります。なので、ジャッジするのは演出家にお任せですが、一応、作品についての思いみたいなものは伝えられればと思って書きます。

ナイゲンはありがたいことに人気の演目で、いろいろな団体の方がやってくれてるし、お客さんも「青春」ってパッケージを気に入ってくれるし、わかりやすく全員野球なので演じる側も気持ちがいいらしいです。
それはそれでありがたいんだけど、もっと“めんどくせぇ学校”の思想の話なのです。

ナイゲンは“自治”の話です

ナイゲンは千葉県立国府台高校という冨坂の母校に実在する会議です。で、その学校の校訓“自主自律”をテーマにした演劇です。

高校って色々あると思うんです。結構自由なところから、謎の規則でガチガチなところまで。
そんな中で国府台高校は「自分達で規則を作っていきましょう、そのかわり守れよ」という自治を重んじる高校です。70年代に学生運動の流れを受けて「自由な校風にしよう」といってその方針に舵を切り、それ以来、派手に行事やったり、服装・頭髪の縛りを減らしたり、その為に面倒な会議やら組織を運営する独自の文化を形成してきた、全国にまだちょっとだけ残っている“自由な進学校”の一つです。
“学校のことは生徒が自分達で決める”ということが是とされている学校なわけです。

でも、それってなかなか難しいんですよね。
意思決定をするためには長い会議を必要とするし、面倒くさい手続きを必要とするし、ややこしい組織が必要になるし。相当がんばらないと高校生がその意識を持つのって難しいと思います。実際、色んな行事を体験して、卒業直前に気づく人が多いです。
で、そんな文化が形骸化して、生徒の自治の力も落ちてきて、教員による締め付けも強めになってきたころの話(現実に起こっている)が本作「ナイゲン」です。

「文化祭のあれこれを決める面倒くさい代表者会議の場で、突然、教員から理不尽な要求を突き付けられました。さて、彼らはどういう結論を下すのか?」という話です。
「小国が隣の大国に侵略されました。さて、降伏しますか?徹底抗戦しますか?」っていう古典的なお話と同じ構図ですね。

そういう場合、主人公が皆を鼓舞して徹底抗戦するのが定石です。
でもナイゲンの場合、「理不尽な節電エコアクションを受け入れる」つまり「降伏する」という結論を下します。
うーん、敗北主義的ですねぇ。
でもそれがネガティブなものではないんじゃないか、という話です。

なぜでしょうか。次へ続きます。

ナイゲンはどさまわりの信仰の話です

「ナイゲン」という話で上記のようなテーマを持ち込むのは、3年3組「どさまわり」の代表者です。彼は学校大好き人間で、「自主自律」を「自治」を何より大事に思っているわけです。下手をすると行事そのものより、その精神性を重視するっていう。国府台高校での思い出や体験や友人や関係性ではなく「国府台高校」という概念を重視しています。何かに似てますね、そう、宗教です。

彼は「国府台高校」という一神教の原理主義者なわけですね。たぶん最初は国府台高校の風土とかそこから生まれた行事に憧れていたはずなのですが、前述のようにそれが衰えていく様を見るにつけ「俺がなんとかしなきゃ」と思っていき、原理手主義的な方向に走っていったのでしょう。それで花鳥風月と袂を分かったこともあって、終盤にああいう暴挙に出るのだと思うのですが。

そんな高校生いるわけねぇだろ、って?ですよね、普通あんなのいないです。ヤバい奴だし。でも、大体高校時代の僕です。
というか、うちの学校の場合、学年に結構な割合で「学校大好き人間」はいて、そのなかの一人二人ずつくらいはそういう「信仰心」でやってる奴だった気がします。

ただ、そんな「信仰心」みたいなのでやってるやつって理解されないんですよね。そりゃそうだ、だって周りの為じゃないんだもの。「自分と神(国府台高校)」の一対一の関係性なんだもの。

だから彼の主張する「自分達のことは自分達で決める」という主張それ自体は正しくても、そのスタイルと、作中でとる方法論ゆえに理解されないわけです。

ナイゲンは、みんなでどさまわりを折る話です

「自治」には「自分たちで決める」「その決定を守る」という二つの側面があります。で、どさまわりは「その決定を守る」ということに固執しています。でも、もはやこの国府台高校(=この内容限定会議)では「自分たちで決める」という部分が失われているわけです。なにせ形骸化しているんだから。
そして、本作は「自分たちの決定を守る」という部分を諦める代わりに、「自分たちで(話し合って)決める」というもう片方の部分を獲得するっていう話なわけです。

それが「自分達の意思で節電エコアクションを受け入れるという決定をする(話し合いによって)」という本作の結論です。
それが、どさまわりのセリフ「こういうさぁ、納得できないことは反対しなきゃいけないんだって。なんでそれがわかんないんだよ」「ナイゲンってのは、うちの学校ってのは、こういうことじゃないんだよ。こんなの押し付けられて従っちゃうような、そんなくだらないものじゃないんだよ」と、それに対する議長のアンサー「節電エコアクションは、もう誰かに押し付けられたものじゃありません。内容限定会議で作った、花鳥風月の発表内容です」なわけです。

ちなみに、昨年、学校側に反対して自治を守ろうとしたけどダメで諦めてた花鳥風月は、この会議の最後のほうの皆で「11ぴきのエコ」を成立させようとして話し合う姿に、この学校のあるべき姿を見たから「やりたいです。うちのクラスの発表内容を節電エコアクションに変更してください」なわけです。ぶっちゃけ内容はもうどうでもいいのでしょう。

で、花鳥風月とどさまわりの3年生二人は、議長を中心とした2年生の姿に安心して、何かを継承している、っていう。
ハッキリ言って、このお芝居の終盤の時点で、あいつらは何かを卒業していますね。まだ文化祭はじまってもいないんだけど。もう文化祭なんてしなくてもいいくらいなもんですよ。

なので、この話は、“国府台高校のあり方”にこだわってきたどさまわりが、他の皆が意図せずに“本当の意味(もう一つの意味?)での国府台高校のあり方”を体現しているのを見て、気づかされる話でもあるわけです。そんでそれが先輩から後輩への魂の継承になってる、と。(どさまわりと議長の最後のやり取り)

つまり、最後の会議としての盛り上がりがないとお客さんもカタルシスを得られないばかりか、花鳥風月も安心して「やりたいです」って言えないし、議長も「僕は、これが内容限定会議だと思います」って言えないし、そのときの皆の姿を見なきゃ熱心な信仰心を持つどさまわりを折ることはできないんです。
本来関係ない「信仰の話」と「会議」を無理やりここでつなげているわけですね。

ナイゲンはウケないと成立しない話です

上記のような、大変めんどくさいテーマを扱っているわけです。
高校生の考え方として一般的じゃないし、そもそも演劇の題材としても一般的じゃないし、しかも最終的に「決起するのではなく圧政を受け入れる(極論)」という、物語的にカタルシスを得づらい、ともすると苦くみえる結論で終わります。

それを観客にすんなり受け入れてもらうにはどうするか。それは、コメディとして圧倒的にウケることです。

この話において、いやもっと言うとコメディにおいて「笑いを取る」ということは物語上のスパイスでもなければ、ラッキーでもありません。クリアしなければいけない大前提であり、ウケないと見世物として成立しない、先に進めない物語のことをコメディというんだと思います。で、この作品もそう思って作ってます。

思いませんか?演劇や映画の感想のなかで使われる「爆笑」のハードルの低さ。声に出してからが「笑い」だし、他の声が聞こえなくなるほどウケてはじめて「爆笑」でしょうよ、と。
中盤(明確に指示すると海のYeah!!浮気発覚~トイレのくだり)で「爆笑」まで行って、お腹一杯にしていないと、そのくらい温まった劇空間じゃないと、どさまわりが何を言い出してもお客さんは「知らんがな」ってなると思います。

演出家がどういう方針でジャッジを下すのかはお任せですが、たぶん座組全体で「今は、どの登場人物が(または全員の場合も)、どういう種の、笑いを取るのか」「その為に各自がどういったパフォーマンスをすべきか」って意識を常に共有していないと、それは叶わないと思います。ちなみにその中でも「おばか屋敷」と「海のYeah!!」はエースストライカーです。
じゃないと多分成立しないです。

ナイゲンは序盤が退屈です

で、そんなこと偉そうに言っているわりに、このお芝居、序盤が退屈なんですよ。そこんとこホントすいません。

なんで、積極的に“稼いでいく”しかないっす。“おもしろげ”な空気を醸し出していくしかないっす。とれるところはどんどん笑いを取りに行くしかない。んでもってサクサクと進めるしかない。

そして「こういうやつ居そう!」を表現していく。「こいつのこういう部分、俺の知ってるあいつに似てる」でお客さんの興味を持続しつつ、入り込ませるしかないです。それは役者の元々の資質を投影するのでもいいし、「実際にいた自分の知ってるあいつ」をマネするでもいいし。

おわりに

そんなこんなでいろいろ書いてきました。
あくまでこれは作家の意見なので、現代演劇においては演出家の解釈でいろいろなものを発見するのが正しいみたいだし、演出家と話しあって作っていきましょう。

とはいえ、ここまで思って、読み取れるように作ってきた作品だよ、というのは皆さんに理解してほしくて長々と書いちゃいました。

ナイゲンがこの形になったのは2012年版(初演と言われること多いけど再演です)ですが、この作品は僕の入学前・在学中・卒業後の十数年間の国府台高校への思い入れが詰まった卒業論文でもあったりします。
わかった上で新しい価値や解釈を乗っけてこの作品をアップデートしていって頂ければ幸いです。
乱文乱筆、失礼しました。

脚本:冨坂友(アガリスクエンターテイメント)