昨晩は寝落ちしてしまったので今書く。
昨日、箱庭円舞曲『父が燃えない』を観てきた。
今まで見てなかったってのもあるし、こないだご一緒したアナログスイッチの秋本くんが出ているってのもあるし、どうやら活動休止前公演だぞってのもあるけど、それより何より、親の葬儀の火葬場での話だと聞いたからだ。
というモチベーションで観た以上、どうしたって感想は「感情移入」という視点にならざるを得ない。
(こないだのエントリで、「母親が亡くなった」「だけどどうにもピンときてない」って書いたので、それとの絡みです。)
噂に聞いていた通り、リアリティのある、でもちゃんと可笑しい、とても良くできた「落ち着いたコメディ」だと思った。
楽しかったのだ。
「演じ分けることでその場にいない人物を描写する・代弁する」っていう表現手法が、「故人の思い出を語り合う」っていう場とシンクロしていたのが興味深かった。
そして、何度も使われていたその手法が、最後の「故人が(その場にいない)子供たちの話をする」に集約されていくのがとてもドラマチックで、必殺技感があって、素敵だった。(余談だけど、俺はこういうクライマックスでちゃんとアガる必殺技がある作品が好きだと最近気づいた)
しかし「自分ごと」として感情移入して観ることはできなかった。
もちろん、感情移入こそが全てだとは思わない。その有無で作品の評価を決めるべきでないってのは同意なんだけど。
でも、今年親を亡くして、でもあんまり現実世界で悲しんだり落ち込んだりできていない人間が、親の葬儀のお芝居を生で観るわけですよ?
そりゃあ感情移入を求めちゃうでしょうよ。
作品として面白かったのは事実。
でも、「あぁ、そういう地方のそういう家庭もあるのね」という、普段通りの家族モノのお芝居を観るモードにしかならなかったのだ。
面白かったのに、感動はしなかったのだ。
それに比べて(比べるべきかどうかは置いといて)、最近見たドラマ『義母と娘のブルース』の第6話や、『アンナチュラル』の各話では、しっかり感動している。それも登場人物に感情移入する形で感動していたのだ。
この差はなんなんだろう?
当然気になる。なぜなら、現状自分がTVドラマの畑の人間じゃなくて、演劇屋の端くれだから。(TVドラマのお仕事もしたいです、はい)
よく、群像劇の芝居を評して「たくさんの登場人物がいるから、どこかに自分を投影できる」と言うことがある。
今回の芝居で言うなら、故人の子どもで男・女・男の兄弟の三番目、秋本雄基演じる前沢望って人物なんか、感情移入し放題に思える。
兄弟の構成もそうだし、家を出て売れない芸術活動に勤しんでるし、めちゃ似てるんだよな、境遇が。しかも知り合いが演じているってこともあるから、当然目がいく。
なのに、彼に感情移入することはなかった。
でもそれは秋本くんのパフォーマンスに問題があったとは思わない。彼はとてもいい仕事をしていたと思う。
では作中の他の人物に没入したかと言うと、そうでもない。
作品自体は楽しんだというのに。
それよりも『義母と娘のブルース』の宮本みゆき(横溝菜帆)や宮本亜希子(綾瀬はるか)、『アンナチュラル』の久部六郎(窪田正孝)や三澄ミコト(石原さとみ)、中堂系(井浦新)の方にバリバリに感情移入して感動してしまった。
この差はなんなんだろう。
俳優の演技の差とか、そういうことじゃないと思うんだよな。
もっと根本の、物語とか、見せ方とか、表現の媒体とか、そういった部分での差。しかもそれは優劣じゃなく好みとか波長に合うとか帯域とかその手のものな気はしてる。
近いと入り込めない説
小劇場の演劇公演/TVでの映像作品
知り合いが演じてる/会ったことない芸能人が演じてる
火葬場の待合室での会話劇(身近で小さい規模)/何事もビジネス目線で処理する鉄壁のキャリアウーマンが義母になる話
火葬場の待合室での会話劇(身近で小さい規模)/不自然死を究明する法医学ミステリー
ドラクエとファイナルファンタジーの違いみたいに、固有のキャラクターとして描きこまれすぎてると自分を投影しづらい、みたいなことなんだろうか。
でもそれで言ったら『父が燃えない』に限らず『義母と〜』も『アンナチュラル』も描きこまれてるわけで。
フィクション度が高いエンターテイメント作品の方が自分を投影しやすいからだろうか。
でもそれで言ったら演劇で「虚構!」って感じの作品あんまり好きじゃないし。
演劇よりTVドラマの方が自己を投影しやすいからだろうか。
うーん…それを認めてしまって良いのだろうか、演劇屋として…!
ちょっとこれは今後も考えていかなくてはいけない気がしてきた。
ちなみに「笑える」って観点で言えば、お笑いだろうとお芝居だろうと圧倒的に生の舞台の方が笑えるんだよな。それは確か。