先輩と祖母の訃報

今日は、二つの訃報を聞いた。
ライバルであり先輩だったPMC野郎の吹原さんと、祖母だ。

『かげきはたちのいるところ』の延期と創作継続とパイロット版の一区切りの話とか、『12人の優しい日本人 を読む会』の話とか、『ナイゲン(朗読版)』の話とか、まとまった文章を書きたいこと、書かなきゃいけないことがたくさんあるのだけど、なかなか取りかかれないまま、二つの知らせを聞くことになった。

吹原さんについて

吹原さんは、劇団としてはライバルで、脚本家としては先輩で、作品を作るたびにちょっとどこかで意識している人だった。
最初に知り合ったのはインターネット上?かなにかで、『お父さんをください』をやたら褒めてくれたのを覚えてる。

ちゃんと関わったのは、黄金のコメディフェスティバル2014。
その前年、全くお声がかからなかった(いま考えると当たり前)このイベントに誘われて、勢い込んで出て、吹原さん率いるPMC野郎に負けて準優勝だった。
作品的には、これまたいま考えると納得の結果なんだけど、うん、悔しかったな。

その翌年『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)』をつくれたのも、前年の悔しさと、反省があったからだと思う。
「もっとドライに“笑い”を突き詰めなければ」
「もっと“自分たちは何者か(=自分たちの表現)”を問い直さなければ」
そう思って作った作品を、客席で見て笑ってくれて、悔しがってくれて、ガッツポーズした瞬間のことは今でも覚えている。

その作品で念願の優勝をしたわけだけど、その年は吹原さんたちはもう卒業してて出てないんだよな。
いつか舞台で、劇団同士で、また一緒にやってリベンジしたい。その思いはずっと持ったままだった。
劇団主宰として、今も、これからもライバルです。

吹原さんとのご縁はそれだけじゃない。
コメフェス2014の時期に所属した脚本家事務所の先輩でもあって、沢山仕事に誘ってもらったし、色々教えてもらった。
ショートアニメの『ワールドフールニュース』もそうだし、初めて書いた実写のドラマ『怪獣倶楽部』も吹原さんに途中の一話を分けてもらって担当したのだった。
途中、劇団の公演と見事にバッティングしてギブアップしかけた時、「俺も劇団のとかぶっていてヤバいから手伝ってもらおうと思ったんだ…気持ちはすげーわかるから頑張ってくれ…!」と励ましてもらって、なんとか書き上げた。
オンエア見たら自分の映像脚本の下手さにずっこけたけど。

ある時、友人のコメディ作家とも話したことがある。
演劇から始めて外部のメディアの脚本も書く人って、大抵どっちかに比重が偏っちゃう。友人はメディアの方だったし、俺は劇団の方だったし。
そんな中で「吹原さんって両方とも同じくらい全力でやっててすごいよね」と。
そう、両方あれだけ力入れてやってる人って、本当になかなかいないんだよ。

劇団の活動においては、自分と塩原さんのことを特に気にしてくれていた。
冨坂と塩原の「劇団の仲間で、初期メンバーで、ちょっと先輩」っていう関係が、そして一旦劇団から離れるっていう決断が、吹原さんと竹岡さんとも重なったからかもしれない、
塩原さんが休団する時は心配してくれて、今回の公演(延期になっちゃいましたが)でまた一緒にやるときは自分のことのように喜んでくれて。
時を同じくしてPMC野郎に竹岡さんが出るってなったときはこっちも何故だか嬉しかった。

今日、PMC野郎の登紀子さんから連絡をもらって「可愛がってるって知ってたから」と言われて、ようやく認める。
俺としてはライバルを気取っていたかったし、吹原さんもそこは一線を引いて尊重してくれてたけど、うん、可愛がってもらってたんだよな。

作品を作る時、お客さんはもちろんのこと、「同業者のこの人に見せたい」みたいな気持ちがある。
俺の場合、どっかで吹原さんのことは意識してたし、特に映像媒体だとなおさらそうだった。
勝手に、どこか兄的なものを感じていたのかもしれない。

語りだすとキリがないな。
俺くらいの仲でもそうなんだから、ご家族の方、劇団員の方の心痛はいかばかりだろう。

とりあえず、働きづめだった吹原さんには「お疲れ様でした」と言いたい。あとは「こっちはもうちょっと頑張ります」と。

祖母について

こんな長々と訃報について書いて、まさか続くとは思わないけど、続く。
祖母が亡くなった。

祖母は何年も前から、それこそ十数年前に実家を出た(=実家がなくなった)あたりから老人ホームに入っており、認知症も進み、ここ何年かは俺のことも認識できなくなっていた。
それもあったり、母も亡くなったりとか、仕事が忙しいとかで全然会いにいけていなかった。

数日前、離れて住んでいる父から「祖母の体調がピンチ」と聞いていて、ちょっとは覚悟していた。
だから、吹原さんの訃報と違って、驚きやショックがあるってわけではない。
ただ、喪失感があるだけだ。

実家があったときは二世帯住宅で…というか正確にいうと祖父母宅に我々家族が押しかけて、途中から二世帯住宅になったような格好で、同居していた。
祖母はお茶の先生で、料理の先生で、その家でもお弟子さんをとって和室でお茶を教えていた。当然料理も上手かった。
たまにご飯を作ってもらうとき、食べる側としては十分美味しいのに、祖母的には100点じゃないらしく、自分なりの反省ポイントをつぶやいているのが印象に残っている。

そのときに作ってもらった料理について、とりわけ「天ぷらや漬け丼のコツを教えて」と約束していたのだけど、結局叶わないままだったのが少し寂しい。

祖母のエピソードは、実は結構演劇づくりで使わせてもらっている。
もはや誰が覚えているかわからないけど、2011年にやった『大空襲イヴ』という作品の「お弁当を作っていって数寄屋橋で待ち合わせて日比谷公園でデート」というエピソードは、祖母から聞いた戦時中の恋愛の話だ。
今考えりゃ当たり前の話だけど、聞いた当時は「戦時中×恋バナ」が新鮮で、これは…!と思ったものだった。
ちなみにその当時付き合っていた人は海軍省に勤める軍人さんで(はい、ここら辺で「あぁ、だから日比谷公園ね」となりますね?『発表せよ!大本営!』に出ましたね?そこらへんの位置関係)、内勤だったのだけどガダルカナルに何かを運んでいる最中に戦死されて、その後に祖父と結婚して俺につながってくるみたい。

そういや『発表せよ!大本営!』の「綾子」は祖母の名前からとったのだった。大空襲イヴとはエピソードは違うけど「戦時中×恋バナ」といったら祖母のイメージなのかも。

最後になるけど、このやたら年季の入った中華鍋は、祖母が天ぷらを揚げていた鍋だ。
実家を出る時だか、少し経ってから母経由だかは忘れたけど、祖母が何十年も使っていた中華鍋を譲り受けて、今でも使っている。
本当は持ち手のあるタイプの中華鍋(北京鍋)の方が使いやすいんだけどなーとかちょっと不満も言いながら、分厚いミトンで掴みながら、中華料理をよく作る。
今度、天ぷらを揚げてみようと思う。
教わりそびれたので、コツはネットで検索しながら。