【劇評】イキウメ『太陽』

2011/11/26 イキウメ『太陽』観劇
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【上演データ】
《東京公演》
日時:2011/11/12(土)~27(日)
会場:青山円形劇場
《大阪公演》
日時:2011/12/2(金)~4(日)
会場:ABCホール
作・演出:前川知大
出演:浜田信也/盛隆二/岩本幸子/伊勢佳世/森下創/大窪人衛/加茂杏子/安井順平/有川マコト
【あらすじ】
四十年程前、
世界的なバイオテロにより拡散したウイルスで人口は激減し、政治経済は混乱、
社会基盤が破壊された。
数年後、感染者の中で奇跡的に回復した人々が注目される。
彼らは人間をはるかに上回る身体に変異していた。
頭脳明晰で、若く健康な肉体を長く維持できる反面、紫外線に弱く太陽光の下では
活動できない欠点があったが、変異は進化の過渡期であると主張し自らを
「ノクス」(ホモ・ノクセンシス = 夜に生きる人)と名乗るようになる。
ノクスになる方法も解明され、徐々に数を増やす彼らは弾圧されるが、変異の適性は
三十歳前後で失われる為、若者の夜への移行は歯止めが効かなくなった。
次第に政治経済の中心はノクスに移り、遂には人口も逆転してしまう。
ノクスの登場から四十年、
普通の人間は三割程になり、ノクス社会に依存しながら共存している。
かつて日本と呼ばれた列島には、ノクス自治区が点在し、緩やかな連合体を築いていた。
都市に住むノクスに対し、人間は四国を割り当てられ多くが移住していたが、
未だ故郷を離れず小さな集落で生活するものもいた。
ということで、おそまきながら前作『散歩する侵略者』で見始め、早速大ファンになった劇団、イキウメの新作公演。
圧倒的だった。
近未来、夜に生きる新しく強い人間「ノクス」と、昼に生きる古い人間「キュリオ(骨董品)」の間での差別・理解・被害者意識などの「共存」の問題を通して、人間の弱さやプライドや家族愛(というより血か?)を描く、静かで骨太で優しいSF作品。
『I am Legend(邦題:地球最後の男)』という定番、クラシックのSFが原案にはあるけれど、「人間が昼の種族と夜の種族に分かれた世界」というのは一般的ではない設定だろう。少なくとも身近ではない。
しかし、この作品は、世界中のどこの国でも、どこの民族でも、どこの集団でも通じる普遍性を持った、「理解」と「愛」の話だった。
それは、この設定が現在の世界のいたるとことに見られる人種・民族・貧富・格差・差別の問題を象徴していたからだろう。うん、一般的な設定じゃなくても象徴していれば普遍性は得られるのだな、というボンヤリ知っていたことの顕著な例。


古い人間キュリオとして貧困の中で育ってノクスに憧れる少年と、ノクスとして生まれながらキュリオに理解を示す青年の友情が、話の大きな筋の一つである。
両者が立場の違いに戸惑いながらも友情を築いていく様が微笑ましく、美しい。だからこそ、かつて大問題を起こして逃走し最近帰ってきた叔父の暴力と無理解が本当に醜悪に映る。太陽に当たれないノクスの青年を拘束し、日の出を浴びせようとしたとき、逃れるために寝袋に包まっている青年を笑ったときなど、本気で「こいつは殺していい」と思ってしまう。
(ちなみにそのときの舞台上の構図・立ち位置が、円形劇場ならではの絵が素晴らしい。)
この一連の流れ自体も非常に緊迫したシーンで、「ちょっと待ってやばいやばい、大要出ちゃうよ!待って待って!早く青年の手錠切って!急いで!」と本気で心配してしまった。
また、その後の青年と少年の会話が痛々しい。貧困で育ち学もないが知恵はある少年を尊敬し「君はノクスにならなくていい」と説く青年と、「それはお前が色々“持っている”から言えることだ」と被害者意識ゆえ自分の現状を受け入れられず「ここではない何処か」に行きたがる少年。
確かに青年の言うことは正しいが、青年の言葉「君たちキュリオは素晴らしい種族なんだよ」は、被差別者にとってどれだけキツイことなのか、皮膚感覚でイヤなのか、全然わかってない。
逆に少年の「お前らは持ってるから言える」「根底に差別があって上から評価してる」という意見は鋭いが、かといって身の回りの環境を否定して違う何かになりたがるのは根本的な解決では決して無い。
どちらも微妙にズレた視点から互いに正しい事を言っていて、そのズレが決定的に根が深い様が哀しい。そしてその両者に友情があるがゆえに切ない。友情や理解は、立場や出自を超えられないのかとやりきれなくなる。この点は以前レビューで書いた『Xメン ファーストジェネレーション』のクライマックスにも通じる部分だ。
もう一つのこの物語の柱は、キュリオの少女と、家族を捨ててノクスになって出て行った母親と、その元夫で少女の父親の男と、母親の今の夫、この家族関係である。
ノクスになると、肉体が強く若々しくなるだけでなく考え方まで変わり、血縁関係という概念が希薄になる。母親も現在は元夫や娘に対して愛情を抱けなくなってしまっている。
そんな中、少女は非常に倍率の高い「ノクスになれる権利」に当選する。
現在の夫との間に子供が居らず養子を欲する母親が、血縁関係を感じないはずなのに何故か元娘をノクスとして養子に迎えたがる気持ちや、会いに行って「みすぼらしいのに何故か魅力的」と感じてしまう気持ち、そしてノクスになるための手術で体液を注入する際に注射ではなくキスを選ぶ様などが、どうしても拭えない愛情を示しているようで印象的。
そして、終盤の展開と舞台の使い方が素晴らしい。ノクスになる事を選んだが、ノクスの不完全さ・足りなさに絶望している男が、自ら太陽(ノクスの不完全さの象徴)に焼かれようと寝そべる様と、舞台上でその男を挟んで対峙するノクスの青年とキュリオの少年の構図。つまりノクス-ノクスになって絶望している男-少年が円形の舞台に並び、そして少年は憧れのノクスになる権利書を破り捨て、青年と少年が一歩歩み寄るところで舞台は幕を閉じる。
この、物語的な希望と、それを一つの絵で表すラストシーンがとてつもなく美しかった。
権利書は『カールじいさんの空とぶ家』のソファであり、カラビナなのだ(って言って誰に伝わるのかなー)。
正直、ノクスになったが絶望している男が自らを焼こうとまでする件は、唐突だった感は否めない。また、母親がキスでの体液交換を選んだのも、テーマ先行の都合良い行動と言えなくも無い。
しかし、細やかな心情より「この物語で何を描くか」を優先して、あの行動を描き、あの構図を作り出したことは圧倒的に正しいと思う。
そして、そうやってやや強引にでも描く結末が、微かな希望であり、作者の「願い」のように見えるところが前作『散歩する侵略者』と同様で、非常に感動的で、信頼できる限りである。
イキウメさん、前川知大さん、お慕い申し上げております。大ファンだぜちくちょー。

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