エクストリーム〜の稽古とか。

『みんなのへや・改』の稽古は休み。
その台本を直し、色々な事務手続きをしていたら夕方に。

たくさん寝たはずなのにやけに疲れていたので、見逃し配信でTVドラマでも見ちゃえ!と思ったら、それすら半ばで昼寝してしまった。
なんでこんな眠いんだ。

そして『エクストリーム・シチュエーションコメディ(ペア)淺越・榎並組』の稽古へ。
そうそう、ここでは書いてなかったけど、下北沢カレーフェスティバル×観劇三昧の合同イベント『路上演劇祭2』というフリーイベントがありまして、アガリスクも出させてもらいます。10月8日(月・祝)。
淺越と榎並が前述の『エクストリーム〜』をやりつつ、総合MCとしてイベントの紹介やら各団体の紹介やら、あとは場つなぎをやるのです。
エクストリームの上演はイベントのトップバッターで11:30〜11:50です。MCは各団体の合間合間に最後まで出てるはず。

詳しくはこちら!

それにしてもトップバッターでこういう情報量の多い・ややこしいネタやって大丈夫かな?とも思うんだけど、野外向きのネタってこのくらいしかないんだよな。演目を始める前にどのくらい「演劇を見る場」にできるかどうかが勝負の分かれ目な気がする。

稽古は2回目か3回目。一週間空くのでセリフを覚えてきてもらって、中身(作中の、普通のシチュエーションコメディ的処理の部分)を細かく練習。

このネタはいかに台本を物語をうまく処理するかではなく、やってる二人の関係性を楽しむ部分が多分にある。だから淺越×榎並の醍醐味を見つけなきゃいけないんだけど、その前に「何をやってるかわかる」を達成しないとね。
特に今回は路上で、意識が散漫になりやすいことが想定されるので、わかりやすさは絶対条件だ。

まだ「この二人なら大丈夫!」っていうマジックはかかってないんだけど、でもなんか楽しそうな気がする。
見世物として考えた時に、榎並の可愛らしさと淺越の女性キャラのブスさが大事になってくるかと。

二人とも耳は良いので(あと言いたいことはわかってるので)「このトーンのこんなニュアンスの言い回し」はすぐ対応できるんだけど、二人とも運動神経がよろしくないんだよなぁ。そこをチャームに転じなくてはだ。

母を納骨してきた話

本日、母を納骨してきた。

SNSで書くかどうか迷ってて(書くべきじゃないとは全然思わないんだけど、必要あるか?と思って)、その都度「今は別の告知ごとがあるから」と先送りにしてきたけど、実は今年の5月に母が亡くなった。

2年前の春頃にガンが見つかり、手術をすることになったのが確か『わが家〜』本番中だったかな。とりあえず術前に立ち会ってから俺は本番があるので劇場に向かい、マチネだけ本番を終えて帰る途中に、電話で「手術ができないレベルになってた」と余命うんぬんの話を聞いた。

長いこと闘病(というと大袈裟か)していて、余命も当初「年で考えない方がいい」と言われてからだいぶ記録更新していたので、本人も覚悟ができていたのかもしれない。それを聞かされていた我々もある程度覚悟はできていたのかもしれない。

こんなこと言うとまたサイコパス扱いされそうなんだけど、正直言うと、悲しいのかどうかわからないまま、ここ5ヶ月ほど過ごしている。

それが覚悟によるものなのか、事実を受け止めきれてなくて悲しむ段になっていないのか、ひたすら俺の感情が鈍くなっているのか、判然としない。
もちろん葬儀の時のいろんな場面や、献身的に世話してくれた担当の看護師さんの語るエピソードなどには感涙することもあったけど、それすら「物語」として感動してるだけなんじゃないの?という気すらしてきて、母親との死別を悲しみっつーか…自分の痛み?として認識できていない。

3ヶ月くらいの間、亡くなった母親が住んでたマンションで暮らしたんだけど、その時には認識できなかった。
その後引っ越して、遺影や位牌とも離れて過ごしても、認識できなかった。
で、納骨してひととおりの儀式が一段落した今になっても、認識できていない。

いや、もうほんと。
じゃあいつなんでしょうね。

皆が皆、同じようなタイミングで同じように悲しまなければいけない、と思ってるわけでもないし、「人それぞれでいいんだよ」なんてのはわかってる。
悩んでるわけでもない。
でも、なんというか、この現時点での消化不良感を言語化して残しておかないといけないな、と思ったのだ。

ちなみに納骨は千葉の山奥で樹木葬で行った。
幼稚園教諭をしながら自然科学系の教育に熱心だった母の意思によるものだ。
「戒名とかいらない」「お寺とのお付き合いとかしなくていいわよ」派の母の意見にはマジ同意なんだけど、そこらへんの考えを抜きにしても、とてもいい場所だった。
春には山桜が咲いて、夏には近くの河原に野生の蛍がいるらしい(ホントに千葉かよ)。
職員の人もお墓の人ってより環境保護のプロって感じで、今日なんかは動植物の話を聞いている時間の方が長く「あれ、理科の授業かな?」と思ったほどだ。

いい話で締めたいわけでもないし、悲しんでない理由をそこに求めるわけでもないんだけど。

超親不孝者だったけど、最後の最後に「よかった」というか「ギリ間に合った」ということが二つある。
最新の作った芝居を見せられたことと、最後にちょっとだけ一緒に暮らせたことだ。

母は劇団の公演をいつも見にきてくれていて、ほぼ唯一の旗揚げ公演から見てるお客さんだった。
で、1月2月と入退院を繰り返している中で、なんとか具合が良くなって奇跡的に2月の『卒業式、実行』を見に来ることができたのだ。
もはや見に行くのが目的化してたかもしれないから、正直どのくらい作品として楽しんでくれたのかは今となってはよくわからないけど(基本うちの母の評価は甘い)「見に来れてよかった」と言ってたので、良かった。

その後、再度入院することになり、母が飼っていたウサギの世話を兼ねて、公演を終えた暇人かつノマドな俺が母のマンションに住むことになった。
そしてそこに母が退院してきて、もしもの時に備えて一緒に住むことになったのだ。
結果的に10日くらいしか一緒にいなかったけど、20歳で実家を出て以降、久しぶりに一緒に寝食を共にできたのは良かった(あ、寝食でもないか、向こうは寝てる時間多かったし、ほとんど固形物も食べなかったから)。
今にして思うと、末期ガンの母親が寝ている部屋のすぐ隣の納戸で、机を持ち込んでくだらないコントを書いているのはとても興味深いシチュエーションだと思う。お芝居っぽいよね。

そんなこんなで、特にオチがあるわけでも結論があるわけでもない。
もっと「母への愛」みたいなのを書けたらいいんだけどね(ちなみに屈折してるわけでもギクシャクしてたわけでもない、むしろ仲はいい)。
でも、今そういうノリじゃないんだよなぁ。
なので、現時点ではこんな感じ、というのを書いてみた。

あ、そうそう。今度やる『わが家の最終的解決』は、手術があったので唯一母に見せられなかった演劇公演なんだよな。
再演するんだけどな、ちょい間に合わなかった。

『みんなのへや・改』稽古3回目

稽古三日目。

冒頭のストーカー(っていう登場人物)の切ない片想い描写、沼田と拓也の恋など、恋愛関係の小っ恥ずかしい描写を徹底してやった一日。

いろんな形の恋愛感情、関係があるから、ちゃんと切実に誠実に描いた上で、どれも滑稽に見せようね。
という前提作りをした。

その中で思ったけど、歌詞の朗読って趣きがあるし、意図や狙いを読み解いて実践していくの面白いっすね。

GO!GO!7188の『こいのうた』を分析して、朗読したときに一番アガる作戦を考えたら楽しかった。
多分、

教えてください神様 あの人は何を見てる?
何を考え 誰を愛し 誰のために傷つくの?

の「入り」のところと、そこから通常サビに「出る」ところ、ここに力点があるなぁとか。

『みんなのへや・改』稽古二回目

みんなのへや稽古。

台本の修正を見据えた話し合いからスタート。
各登場人物なりに「こここう思った」「ここ膨らませられる」を収集しようとしたけれど、そもそもこの話の全体像を掴むのが大変とのことで。

一旦、相関図を書いてみようと。
元々の関係性、誤認している矢印、「この人から姿を隠す」「◯◯が見つからないようにする」といったミッション・ルールの矢印。
増えていく矢印を一枚の紙に全て書いていったら、とんでもないことになった。

でも、これを作りながら「この情報抜けてませんか?」とか「ここ、この情報が訂正されたらこれも一緒に気づくのでは?」といった話がたっぷりできたのは収穫。そうそう、みんなその相関図脳になってくれると素敵。

その後、冒頭を立ってやってみよう、ということで立ち稽古。間取りは変わるかもしれないけど、とりあえず初演のままで。
台本レベルだと「長いな」「いらないな」と思っていたやりとりが、俳優が立って動いてみると成立していたり、むしろセリフを喋っていない俳優を見せて理解させる時間のために必要だったり、色々発見。

あと、冒頭の一人で無言で空間を埋めなきゃいけないシーンが、結構いけた。
1分くらい余裕で見てられるし、本人も平気そうだし、そもそもそこでやらなきゃいけないタスクが多いので1分くらいはかかっちゃう。

江益凛やるなぁ、と、渋谷裕輝うまいなぁ、を実感。

『みんなのへや・改』稽古初日

稽古初日でした。

パズル的な部分…暫定的な修正のみ行った「ほぼ初演台本」を持って稽古場へ。

諸々の説明の後に、読み合わせ。
予想以上に楽しんで読んでくれたとは思うけど、多分みんな思ったんじゃないかな。「この演劇…物語がねぇ…!」って。

その分、見世物としての「楽しさ」…それは完成度だけじゃなくて、作っていく過程の「なんだか訳のわからないオンリーワンのものを作っているぞ」という期待感もなんだけど…を高めていくことが肝要。

取り急ぎ修正点として、人物としてのグッとくるポイント、劇中よく出てくる「恋」に関しての切なさ・その滑稽さを見つけること。
その上で、先日アガリスクが新宿コントレックスツアーでやった短編『切ない恋』の経験がだいぶ役立つことに気がついた。

切ない片思い(こってりめ)×それどころじゃない状況

は、どんなシチュエーションでやっても大抵面白くなることがわかった。
コレを上手いこと使えば、ストーカーの片思いとか、男性同士でしかも浮気のカップルとか、そういった一般的なカップルじゃない人物の関係性も「奇異なもの」じゃなく手触りを持って描けるんじゃないか。
切実に描いた上で滑稽に見られるんじゃないか。
そんなことを思ったし、それを出演者と共有できたのが良かった。

その後は「俺はこういうスキルを持ってて欲しいっす」という基準づくりのために『お父さんをください』を稽古。
「ツッコミの海の中にボケがあるのが理想」
「前衛のツッコミと後衛のツッコミ」
みたいなスポーツっぽい練習をした。

ただのネタこそ

『みんなのへや・改』の台本を直していた日。

先日、Twitterなどで初演の台本について「あんまり直さなくても面白いのでは…?」とか書いたけど、それは勘違い的パズル部分のみだった。そこは凝ってるんだよなぁ。でもセリフとか人物造形がヘニョヘニョ。というかあんまりそこをやる気がない。

いろんなところをスムーズにして、ダサい会話を直していくだけで行けそうなんだけど、それだと単にシンプルに短くなるだけなわけで。

もっと言うと、ただのネタ台本だからこそ、出演者各自と一緒に物語を見出して、膨らませて「俺達のネタだ」感を確保していかないといけない気がしてきた。
なんというか、ガーッと書き直している最中に思ったのだ。
仕上げたネタを持っていって、最短で組み上げてパフォーマンスできるようになっても「…で?」っていう公演になってしまう気がしたのだ。
なるべくたくさんの創意工夫を共有していかなければならないというお告げのような勘が働いた。

もちろん、バキッと完璧な台本がある現場でも、創意工夫の作品づくりはできる。
でも物語ではなく「ただのネタ」だからこそ、もっと作家と演出家と役者の脳がごちゃごちゃに混ざり合った状態を経る必要があると感じた。

ということで、明日はみんなでウンウン唸るアガリスクっぽい作品づくりをしようと思う。
俺は俺で直すポイントを別で進めつつ。

独り言みたいな日記になってしまった。

チラシの日

朝、玄関チャイムの音で目が覚めた。
宅配便で『みんなのへや・改』のチラシが届いたのだ。

演劇のチラシが自宅に届く経験自体は何度もしているけれど、イチから自分だけでイラレで作ったチラシは初。
今回、チラシを大々的に撒く公演ではないので数は少ないけれど、25日くらいからちょこちょこ折り込まれていきます。見つけたら見てみてください。

ということで、早速届いたチラシを関係者の直近の公演会場に発送することに。
キャリーがないので1700枚のチラシを、いつ持ち手が取れるかわからない頼りない買い物バッグに入れて最寄りの郵便局まで足を伸ばしたところ、日曜閉店で愕然とした。帰り道はチラシが3400枚になったかと思った。

そして『みんなのへや・改』台本を直してから渋谷へ。
今度はアガリスク本公演の『わが家の最終的解決』のチラシ写真撮影に。
撮影はいつもの石澤知絵子さん、デザイナーは津和野くん。

もうだいたい構図は決めていたはずだけど、細かな物の配置をめちゃくちゃこだわって撮影。今回は撮影場所の雰囲気が100点満点すぎたので、欲が出ますね。
来月頭くらいにはデザイン公開されるんじゃないでしょうか。乞うご期待。

その後、チラシのメインビジュアル用ではない写真をちょこちょこと撮影。
とんでもないイケソギ(イケてるネコソギ=甲田守の意)写真と、大変微笑ましい家族写真みたいなのが撮れた。だけどコンセプト的にこれ使わねぇんだよな…。
イケソギは熊谷も見て笑っちゃうくらいイケていた。(↓)これよりも。

 

何度目かの日記書こう期

だいぶ久しぶりになってしまったけど、日記レベルでいいのでなるべくブログを書いて残そうと思う。

とりあえず『みんなのへや・改』に向けて台本を直しつつ、『わが家の最終的解決』の連絡をあれこれやっている日々。あとはWEBアニメの連続モノの台本を書きつつ。作家ウィーク。

そんな中で色々作品を見ていて。

先日、Twitterで前に下北沢ダイハードでご一緒したプロデューサーのつぶやきを見て、第一話しか見ていなかった『義母と娘のブルース』の最終話を観た。
それまでのあらすじは何かの折に公式ページのあらすじを見ていたから知っていたのだけど、それでも最終話クライマックスの、

みゆき「そういうのさぁ、世間じゃ“愛”っていうんだよ」

がすげぇ良い台詞で印象に残った。
その後、Paraviに登録してそれまでの配信分見ちゃったよ。全部。二日で。ほぼ寝ないで。
6話のお通夜シーンは、個人的な事情もあってだいぶ刺さってしまった。そうだよなぁ、悲しむのが仕事なんだよなぁ。
全体的に、大層良いドラマでした。

それにしても、「契約結婚」みたいに「恋愛のフリ」をする作品じゃないと、「普通の恋愛じゃないんで」みたいな顔をしてからはじめないと、恋愛のきらめきを描けない時代なのかな、とも思ってしまった。『逃げるは恥だが役に立つ』も然り。いや、どちらも好きな作品なんだけど。
そして俺も「恋愛じゃないんで顔」をする作品に惹かれちゃうんだけどさ。

それから、食事をしながら久しぶりに生放送で『キングオブコント2018』を鑑賞。チョコレートプラネットの1本目のネタが一番好きだった。
よくいる余裕ぶっこいてる悪役が困らされるネタって、俺もいくつも考えたことあるけど、それであそこまでの盛り上がりを作れるのはすごい。展開をツイストさせまくらなくても、ちゃんとあるべきタイミングで面白く膨らませれば、ダイナミズムは作れるんだなぁと。

でもハナコの優勝も納得。
二本とも「ボケとツッコミ」のやりとりがなくて、次どうなるんだろ?と期待を引っ張るだけなんですね。それってやっぱ「劇」の面白さで。 それであれだけ明確に笑いどころ・盛り上がりを作ってたのはすごいと思う。
早めにボケたくなるし、予想を裏切ったらついついツッコミたくなっちゃうもんなぁ。

そもそも自分達でも短いネタを作るようになって以降、キングオブコントをリラックスして娯楽として観ることはできなくなったのだけど、それに増してザ・ギースがサイコメトラーのネタをやっていたもんだから、先日の自分達とモチーフが被ったもんだから、ついつい心拍数が上がってしまった。

それから、榎並夕起がヒロインをやっている上田慎一郎監督作品『彼女の告白ランキング』を観た。ようやく観た。
ここで配信されてて、上田監督の3作品を810円で観られます。)

『お父さんをください』との共通点をたくさん感じたのと、それまで告白=悪い真実みたいになってる流れでの「実は中国人」ってネタが無自覚なんだろうけど(いやむしろ無自覚だから、か)危ういなぁと思ったのと、主演の人のツッコミが0か100で極端だからもうちょい間を狙おうぜ(いろんな感情、指向性、ノイズなど情報量が含まれた豊穣なやつがいい)と思ったのと、あのテンポ・あの超展開(新しい単語連発)の割に全員ちょっとずつ滑舌が甘いのが気になった。
でも榎並夕起が「若くて可愛い無邪気な女の子」(と装ってるだけなんだけど、それが前フリとして効くくらいに)を言い訳無しで出来てるのはすごいなぁ得難いなぁと思った。見た目がかわいいって強いな。見世物としてアドバンテージ。当たり前だけど。

そして、これは俺の偏見なのかもしれないけど、やっぱり映画ってフォーマットだとついつい「物語」を求めてしまうのが可哀想だなぁと思った。
いや、俺もだな。「こういうただ面白いだけのコントだっていいじゃん」と支持したくなるのだけど、ついつい物語を求めてしまう狭量な自分を発見。
ショートフィルム業界だとそうでもないのかしら。

感想ばかりになってしまった。

明日は『みんなのへや・改』台本直しでWordを直接ゴリゴリいじる段になったのと、あとは『わが家の最終的解決』のチラシの写真撮影に行ってきます。

ナイゲン終了しました&これからナイゲンを演じる皆様へ

遅くなりましたが、ILLUMINUS selection『ナイゲン』終演しました。
沢山のご来場、誠にありがとうございました。

熱心で気の良いキャスト、ナイゲンのことをよく理解してくれているスタッフという、本当にいい座組みだったと思います。

劇団じゃない外部のプロデュース公演でここまで自由にできるのか、ここまで大人の事情抜きで作品作りのことだけ考えられるのか、と少し感動しました。偏にプロデューサーの佐野木氏のおかげです。超ありがとうございます。

歴史の違いはあるけどさ、本人仕様にカスタマイズされた台本じゃないけどさ、それでも、個人的にはアガリスクで何度も上演を重ねたものと遜色ないものができたと自負してます。

そして、この作品の持つ強度を改めて実感させられました。やっぱナイゲンってネタ、強い。
そしてそれを知った上で思うけど、ここまで皆様に気に入ってもらえるとは。
(本当ありがとうございます)

同じ国府台ネタだと『卒業式、実行』の方がコメディとして運用しやすかったりするんだけど、ドシンとした塊としてはやっぱりナイゲンの重さはすごいな、と。
今後の劇作を考える上で、とても良い指針(であり高いハードル)になりました。

っていうことを語ると長くなるから置いときますが。


さて、そんな久しぶりの冨坂演出版ナイゲンが終わったのですが、また別のナイゲンが始まります。
新宿シアター・ミラクルで毎年やっている、劇場企画のプロデュース公演のナイゲンです。

今日、第一弾出演者が発表されました。

また新しいメンバーによる新しいナイゲンが作られていくわけですが。

せっかくなので、ここらで、以前(ミラクルで2016年版をやるときかな?)ナイゲンをやるキャスト向けに配った文章を再掲しておきます。

原理主義者よりナイゲンを演じる人たちへ

以下に書くのは、「作者の冨坂友はこう思って書いたよ」という私見です。野暮ですが書きます。
上演の方針を決める権限も責任も演出家にあります。なので、ジャッジするのは演出家にお任せですが、一応、作品についての思いみたいなものは伝えられればと思って書きます。

ナイゲンはありがたいことに人気の演目で、いろいろな団体の方がやってくれてるし、お客さんも「青春」ってパッケージを気に入ってくれるし、わかりやすく全員野球なので演じる側も気持ちがいいらしいです。
それはそれでありがたいんだけど、もっと“めんどくせぇ学校”の思想の話なのです。

ナイゲンは“自治”の話です

ナイゲンは千葉県立国府台高校という冨坂の母校に実在する会議です。で、その学校の校訓“自主自律”をテーマにした演劇です。

高校って色々あると思うんです。結構自由なところから、謎の規則でガチガチなところまで。
そんな中で国府台高校は「自分達で規則を作っていきましょう、そのかわり守れよ」という自治を重んじる高校です。70年代に学生運動の流れを受けて「自由な校風にしよう」といってその方針に舵を切り、それ以来、派手に行事やったり、服装・頭髪の縛りを減らしたり、その為に面倒な会議やら組織を運営する独自の文化を形成してきた、全国にまだちょっとだけ残っている“自由な進学校”の一つです。
“学校のことは生徒が自分達で決める”ということが是とされている学校なわけです。

でも、それってなかなか難しいんですよね。
意思決定をするためには長い会議を必要とするし、面倒くさい手続きを必要とするし、ややこしい組織が必要になるし。相当がんばらないと高校生がその意識を持つのって難しいと思います。実際、色んな行事を体験して、卒業直前に気づく人が多いです。
で、そんな文化が形骸化して、生徒の自治の力も落ちてきて、教員による締め付けも強めになってきたころの話(現実に起こっている)が本作「ナイゲン」です。

「文化祭のあれこれを決める面倒くさい代表者会議の場で、突然、教員から理不尽な要求を突き付けられました。さて、彼らはどういう結論を下すのか?」という話です。
「小国が隣の大国に侵略されました。さて、降伏しますか?徹底抗戦しますか?」っていう古典的なお話と同じ構図ですね。

そういう場合、主人公が皆を鼓舞して徹底抗戦するのが定石です。
でもナイゲンの場合、「理不尽な節電エコアクションを受け入れる」つまり「降伏する」という結論を下します。
うーん、敗北主義的ですねぇ。
でもそれがネガティブなものではないんじゃないか、という話です。

なぜでしょうか。次へ続きます。

ナイゲンはどさまわりの信仰の話です

「ナイゲン」という話で上記のようなテーマを持ち込むのは、3年3組「どさまわり」の代表者です。彼は学校大好き人間で、「自主自律」を「自治」を何より大事に思っているわけです。下手をすると行事そのものより、その精神性を重視するっていう。国府台高校での思い出や体験や友人や関係性ではなく「国府台高校」という概念を重視しています。何かに似てますね、そう、宗教です。

彼は「国府台高校」という一神教の原理主義者なわけですね。たぶん最初は国府台高校の風土とかそこから生まれた行事に憧れていたはずなのですが、前述のようにそれが衰えていく様を見るにつけ「俺がなんとかしなきゃ」と思っていき、原理手主義的な方向に走っていったのでしょう。それで花鳥風月と袂を分かったこともあって、終盤にああいう暴挙に出るのだと思うのですが。

そんな高校生いるわけねぇだろ、って?ですよね、普通あんなのいないです。ヤバい奴だし。でも、大体高校時代の僕です。
というか、うちの学校の場合、学年に結構な割合で「学校大好き人間」はいて、そのなかの一人二人ずつくらいはそういう「信仰心」でやってる奴だった気がします。

ただ、そんな「信仰心」みたいなのでやってるやつって理解されないんですよね。そりゃそうだ、だって周りの為じゃないんだもの。「自分と神(国府台高校)」の一対一の関係性なんだもの。

だから彼の主張する「自分達のことは自分達で決める」という主張それ自体は正しくても、そのスタイルと、作中でとる方法論ゆえに理解されないわけです。

ナイゲンは、みんなでどさまわりを折る話です

「自治」には「自分たちで決める」「その決定を守る」という二つの側面があります。で、どさまわりは「その決定を守る」ということに固執しています。でも、もはやこの国府台高校(=この内容限定会議)では「自分たちで決める」という部分が失われているわけです。なにせ形骸化しているんだから。
そして、本作は「自分たちの決定を守る」という部分を諦める代わりに、「自分たちで(話し合って)決める」というもう片方の部分を獲得するっていう話なわけです。

それが「自分達の意思で節電エコアクションを受け入れるという決定をする(話し合いによって)」という本作の結論です。
それが、どさまわりのセリフ「こういうさぁ、納得できないことは反対しなきゃいけないんだって。なんでそれがわかんないんだよ」「ナイゲンってのは、うちの学校ってのは、こういうことじゃないんだよ。こんなの押し付けられて従っちゃうような、そんなくだらないものじゃないんだよ」と、それに対する議長のアンサー「節電エコアクションは、もう誰かに押し付けられたものじゃありません。内容限定会議で作った、花鳥風月の発表内容です」なわけです。

ちなみに、昨年、学校側に反対して自治を守ろうとしたけどダメで諦めてた花鳥風月は、この会議の最後のほうの皆で「11ぴきのエコ」を成立させようとして話し合う姿に、この学校のあるべき姿を見たから「やりたいです。うちのクラスの発表内容を節電エコアクションに変更してください」なわけです。ぶっちゃけ内容はもうどうでもいいのでしょう。

で、花鳥風月とどさまわりの3年生二人は、議長を中心とした2年生の姿に安心して、何かを継承している、っていう。
ハッキリ言って、このお芝居の終盤の時点で、あいつらは何かを卒業していますね。まだ文化祭はじまってもいないんだけど。もう文化祭なんてしなくてもいいくらいなもんですよ。

なので、この話は、“国府台高校のあり方”にこだわってきたどさまわりが、他の皆が意図せずに“本当の意味(もう一つの意味?)での国府台高校のあり方”を体現しているのを見て、気づかされる話でもあるわけです。そんでそれが先輩から後輩への魂の継承になってる、と。(どさまわりと議長の最後のやり取り)

つまり、最後の会議としての盛り上がりがないとお客さんもカタルシスを得られないばかりか、花鳥風月も安心して「やりたいです」って言えないし、議長も「僕は、これが内容限定会議だと思います」って言えないし、そのときの皆の姿を見なきゃ熱心な信仰心を持つどさまわりを折ることはできないんです。
本来関係ない「信仰の話」と「会議」を無理やりここでつなげているわけですね。

ナイゲンはウケないと成立しない話です

上記のような、大変めんどくさいテーマを扱っているわけです。
高校生の考え方として一般的じゃないし、そもそも演劇の題材としても一般的じゃないし、しかも最終的に「決起するのではなく圧政を受け入れる(極論)」という、物語的にカタルシスを得づらい、ともすると苦くみえる結論で終わります。

それを観客にすんなり受け入れてもらうにはどうするか。それは、コメディとして圧倒的にウケることです。

この話において、いやもっと言うとコメディにおいて「笑いを取る」ということは物語上のスパイスでもなければ、ラッキーでもありません。クリアしなければいけない大前提であり、ウケないと見世物として成立しない、先に進めない物語のことをコメディというんだと思います。で、この作品もそう思って作ってます。

思いませんか?演劇や映画の感想のなかで使われる「爆笑」のハードルの低さ。声に出してからが「笑い」だし、他の声が聞こえなくなるほどウケてはじめて「爆笑」でしょうよ、と。
中盤(明確に指示すると海のYeah!!浮気発覚~トイレのくだり)で「爆笑」まで行って、お腹一杯にしていないと、そのくらい温まった劇空間じゃないと、どさまわりが何を言い出してもお客さんは「知らんがな」ってなると思います。

演出家がどういう方針でジャッジを下すのかはお任せですが、たぶん座組全体で「今は、どの登場人物が(または全員の場合も)、どういう種の、笑いを取るのか」「その為に各自がどういったパフォーマンスをすべきか」って意識を常に共有していないと、それは叶わないと思います。ちなみにその中でも「おばか屋敷」と「海のYeah!!」はエースストライカーです。
じゃないと多分成立しないです。

ナイゲンは序盤が退屈です

で、そんなこと偉そうに言っているわりに、このお芝居、序盤が退屈なんですよ。そこんとこホントすいません。

なんで、積極的に“稼いでいく”しかないっす。“おもしろげ”な空気を醸し出していくしかないっす。とれるところはどんどん笑いを取りに行くしかない。んでもってサクサクと進めるしかない。

そして「こういうやつ居そう!」を表現していく。「こいつのこういう部分、俺の知ってるあいつに似てる」でお客さんの興味を持続しつつ、入り込ませるしかないです。それは役者の元々の資質を投影するのでもいいし、「実際にいた自分の知ってるあいつ」をマネするでもいいし。

おわりに

そんなこんなでいろいろ書いてきました。
あくまでこれは作家の意見なので、現代演劇においては演出家の解釈でいろいろなものを発見するのが正しいみたいだし、演出家と話しあって作っていきましょう。

とはいえ、ここまで思って、読み取れるように作ってきた作品だよ、というのは皆さんに理解してほしくて長々と書いちゃいました。

ナイゲンがこの形になったのは2012年版(初演と言われること多いけど再演です)ですが、この作品は僕の入学前・在学中・卒業後の十数年間の国府台高校への思い入れが詰まった卒業論文でもあったりします。
わかった上で新しい価値や解釈を乗っけてこの作品をアップデートしていって頂ければ幸いです。
乱文乱筆、失礼しました。

脚本:冨坂友(アガリスクエンターテイメント)

会議は、まだまだ終わらない

超久しぶりの更新ですみません、冨坂です。
そしてさっそくの告知です。

劇団で何度も上演している、いろんなチャンスを運んでくれる代表作の『ナイゲン』(もはやアガリスクのポリリズム)を、再び上演!
今回は、2.5次元作品を多く手がけるILLUMINUSというユニットのプロデュース公演として上演します。

出演者は、アガリスクメンバーだけどナイゲンに出てなかった熊谷有芳(どさまわり)、前田友里子(監査)、あと配役変わって続投の榎並夕起(文化書記)、そしてILLUMINUSメンバーや各コメディ劇団の精鋭たちでお届け。

演出は、3年ぶりくらいに作者の冨坂が担当して、劇団で最後に上演した決定版こと『ナイゲン(全国版)』超えに挑みます。

新しい決定版を目指す2018初夏のナイゲン、ぜひお越しくださいませ!
チケットは4/22(日)12:00から発売です。

よろしくお願いします。


ILLUMINUS selection
『ナイゲン』
脚本・演出:冨坂友(アガリスクエンターテイメント)
2018年6月12日(火)~17日(日)

【キャスト】

井上貴々(シアターザロケッツ)
前田友里子(アガリスクエンターテイメント)
谷茜子(ILLUMINUS/ベニバラ兎団)
榎並夕起(アガリスクエンターテイメント)
甲斐優風汰
江益凛
秋本雄基(アナログスイッチ)
澤井俊輝(ILLUMINUS/Studio Life)
堀ノ内翼(鼎)
千歳ゆう(ILLUMINUS)
舩原孝路(東京サムライガンズ)
久木田かな子(エスエスピー/物語研究所)
熊谷有芳(アガリスクエンターテイメント)

【タイムテーブル】

6月
12日(火) 19:00
13日(水) 14:00/19:00
14日(木) 19:00
15日(金) 14:00/19:00
16日(土) 13:00/18:00
17日(日) 12:00/16:00

※受付開始・開場は開演の30分前です。

【料金】

S席 ¥6000-
A席 ¥4000-
※S席特典「前方良席・上演台本&希望キャストのサイン入りブロマイド付き」
※当日券は¥500増

【予約開始日】

2018年4月22日(日)12:00~

【ご予約】

CoRichチケット

【会場】

浅草九劇
東京都台東区浅草2-16-2 浅草九倶楽部 2階
03-6802-8459

【お問い合わせ】

公式WEB:こちら
メール:info@illuminus-creative.net