WEBアニメ企画(仮)2回目収録

今日はWEBアニメ企画(仮)の2回目の収録へ。

レギュラーで書いてる、コントなWEBアニメの収録の仕事。これは書くだけじゃなくて、もう一人の作家さんが書いた奴の演出もやらせてもらってて、劇団メンバーも鹿島・津和野・ジャンプさんが参加してる劇団ぐるみの仕事。
なので作家仕事ってよりも、以前やってた『その時歴史がウゴイタ?』を大人になった我らがちゃんとやらしてもらってるみたいな企画。

毎回複数本録りなのだけど、初回はその中にアフレコ(絵が先)があり、絵に合わせて喋る(しかも結構ハイペースな屁理屈コント)のに苦戦して時間がかかってしまった。
2回目は全部プレスコ(声が先)なので「まぁネタだけやればいけるから早いっしょ」とタカをくくっていたら、思いの外時間がかかってしまった。時間に余裕があるとネタとして細部をこだわってしまう。。。
先日のコントレックスツアーのネタ『切ない恋』でも思ったけど、鹿島さんとか津和野くんは話がはやい。あと一緒にやってる声優さんが全く別の技術体系を持ってて、収録のたびに見るのが面白い。

収録後にご飯を食べに行ってたら、狂気の新ネタを思いついて盛り上がった。
『エクストリーム・シチュエーションコメディ(カロリー)』。
どこでやるんだ。

『みんなのへや・改』クライマックスの稽古

今日は『みんなのへや・改』のみの日。

本番でお披露目する美術案を実験してみたら、思いのほかいい感じになった。
金はかかってないけど、これは勝てる美術な気がする。
あとはチャラでの天井との相談だ。

そして終盤の15分くらいグワーッと走るクライマックスをひたすら稽古。
楽しいんだけど、全力疾走のまま15分くらい行くから、やかましくならないように気をつけなければ。
多分、ベクトルの矢印が整理されていれば、長いこと高い熱量で会話し続けても、五月蝿く聞こえないのだと思う。
整理すること、そしてウケること、だよな。当たり前なんだけど。

感覚をつかむために『エクストリーム・シチュエーションコメディ(ペア)』のドンとブレンダの勘違いネタをやってみるなど。
そう、勘違いネタは、ナマクラなデッカい剣を振るんだよ。

次回は通し稽古だ。
シチュエーションコメディは「覚えてしりとり」なので、順にやって情報を重ねていかないとわからないことが多い。

そして帰ってから電話で打ち合わせ。
明日は例の楽しみなアニメ企画。
コントの声の収録の演出だ。馴染みのメンバーだけど、8本のコントを録りまくるスタミナ勝負。

路上演劇祭2

朝から路上演劇祭2

徹夜なのか寝落ちなのかよくわかんないままダラダラと朝を迎えて路上演劇祭の会場へ。
ま、路上だからいいんだけど、贅沢いったらバチ当たるんだけど、会場が思いのほか奥にスコーンと抜けた広ーい空き地で、そわそわしながら準備。

とはいえ、事前に聞いていた前日比よりもかなり沢山のお客様が11:30から来てくれていて嬉しかった。
最初「あれ、これトップバッターでラッキーだったのでは?」とも思ったけど、最後まで順調にずっと多くの方にお越し頂いていた模様。感謝ですね。

『エクストリーム・シチュエーションコメディ(ペア)』は、最初こそ声の通らなさで「頑張ってる感」が見え隠れしたけど、作品の性質上「ミスというネタ」があったり、さらには「ミスというネタの皮を被ったリアルミス」のハプニング的な笑いを皮切りに、ちゃんとウケてよかった。
この作品は中身か外側かどっちかは引っかかるから安心だ。
淺越×榎並ペアはタイプが違い過ぎるから結構よかったのでは。なんだろうな、絶妙なヘッポコ感(っていうほど出来ない二人じゃないんだけど、可愛げというか抜け感がある二人組。これとても大事だと思う。)
風の強さに帽子が飛ばされて無くなってしまうのを懸念してたけど、それは起こらなかったけど、なんと帽子の名札のみ飛んでいくというハプニング。
しかもそれが例の「照明」って役になった直後だったので、シンプルにそのネタが一つ潰れて残念。

カンパというかおひねり?も思いの外沢山入れて頂いて、ありがたかったです。

その後は「カレー演劇論」研究家の淺越教授と榎並助手として司会進行。
だけど流れはぶっつけだし、打ち合わせもしてないので、空気を読んでやるしかない。
さらには「今やった演目がいかにカレー的か論評する」という小芝居を挟む仕様にしてしまったので、毎回、前の団体が上演している間に、演目をカレーにこじつける大喜利的なミッションが発生。めちゃくちゃ大変だった。

上記のように放送作家的なこともしつつ、MCにキュー出したりとタイムキープもしてたので、アガリスクの演目終わってからも超バタバタした半日だった。カレーフェスティバルなのにカレーを食べる時間(テイクアウトする時間も)ないっていう笑

でも、乗り打ちで複数劇団オムニバスのコントライブ「新宿コントレックス」をやっていた経験に助けられたなぁというのを実感。
これは演目の上でも進行の上でも。
野良に強いって格好いいと思うので。だからもっと強くなりたいですな。
まぁ普通の演劇も上手くなりたいけども。

途中抜けして『みんなのへや・改』稽古へ。
16時に慌てて向かったら、稽古場を18時からしかとっていなかったという最悪の凡ミス。みんなごめんなさい。

今日も「ネタをネタとしてやる」の稽古。
うーん、何か違う策を試すなり、ブレイクスルーをしたいところだ。

10/7、いろんな稽古佳境

台本を直して、『みんなのへや・改』稽古からの路上演劇祭(エクストリーム・シチュエーションコメディなど)稽古。

『みんなのへや・改』では中盤から終盤の勘違いネタの部分。引き続き。
自然と相手役とやりとりするのと違うレイヤー・チャンネルで観客に「ここだよー!」とアピールしなければいけない。

本番中の観客からの「面白い人認定」の話をした。
ところどころでここを積み上げていかないと。ここを「今はいいか」と諦めたら、「この人は笑い担当じゃないのね」と見られてしまう。
みたいな話。
稽古してたら「このネタもっと引っ張ったらまだいけそう」と思ってネタが伸びた。多分これは面白いネタ。

エクストリーム・シチュエーションコメディ(ペア)はだいぶいい感じ。
ただ、いかんせん明日は路上だもんな。アウェーで、しかも空気の散る、路上。複雑なことを伝えるのは難しいのかもしれないので、演る側の腕力が問われるよなぁ。

MCも設定を噛ませたら結構大変そう。
明日は早いし結構大変な本番だから、すぐにでも寝たいんだけど、色々終わらない。。。

勘違いネタの勘どころ

怒濤の12時間稽古ラッシュが終わり、夕方からの『みんなのへや・改』稽古。

台本の修正も全部済ませてしまいたかったけど、劇団の作業が終わらず、どちらも半端になってしまって反省。

前回稽古で修正しまくってわけがわからなくなった台本(↓)を打ち直して刷り直したけれども、そこよりも前に。

あまり触れていなかった中盤〜終盤の「勘違いネタ」の部分。
やってみると、なんだかどうにも「ネタっぽくない」。

おそらく、トーンとかテンションとかが統一されていないのが原因か。そりゃ勿論登場人物の認識がズレてるわけだから、各キャラのテンションは違うんだけど、テンションは違いつつも、なんだろう?デフォルメ具合?画のタッチ?そういうのが揃っていないといけないんだろうな。

そこから、具体的に「こう言って」「このくらい空けて」という即物的な指示をせずに、どのくらい勘違いネタの「あの感じ」に到達できるか、言葉を尽くす。解釈とネタの機能の説明で到達したいもんなぁ。
「あなたがこのシチュエーションコメディ番組の編集マンだったら、どこにラフトラックを入れますか?」と訊いて、笑いを取るべきポイントを点で定めていく。

色々やったらだいぶそれっぽくなってきた。
いい感じになってきたので、その流れで次のシーンの変更予定の箇所を稽古しながら口立てで作っていく。そしたらだいぶ機能的なネタができた。

そこから遡って色々な段取りを決めていく。
やっぱこの芝居は実寸で色々やらないと何も始まらないな。

稽古は充実しているんだけど、なんかワークショップっぽいのが気になる。
俺が教える場みたいになると違うんだよなぁ。
俺は演出だし、みんなとは初めましてだし、初演の実績がある作品だけど、ちゃんと開発して、世界に向けて「これが今の世にわざわざ集まって作った俺たちのネタだ!」というものでないとな。


アガリスクエンターテイメント番外公演
『みんなのへや・改』

2018年10月17日(水)〜21日(日)@CHARA DE 阿佐ヶ谷

詳細は こちら

ご予約は こちら

終日稽古

12時間のぶっつけ演劇稽古。

まずは10/8(月・祝)に下北沢でやる路上演劇祭の『エクストリーム・シチュエーションコメディ(ペア)』練習。
後半の勘違いネタを詰めて、通し稽古。
一通りやったところで、榎並夕起がドン(作中の怖い人、マフィアの首領みたいな)パートをやるときのなんとも言えない面白さがツボにハマった。多分これ一般的じゃない。珍味なやつ。

彼女は声が幼いというか、良くも悪くもかわいらしすぎる特徴がある。
アニメ声とかとは全然違うんだよな、なんだ、アイドル的な感じ?
それがエクストリームとはいえドンをやるときのミスマッチ感、ダサさ、ヤバ(い演劇)さ、そういったものが面白くなってしまった。
なんていうの?高校のクラス演劇で女子高生がいかつい男役をやるときの似合ってなさ、愛おしさに通じるやつ。
まぁ本人は大人っぽい役をやる上で中々悩んでそうだし、これから直面するんだろうけど。
でも声質は楽器としての種類だからなぁ。前田とか淺越とかジャンプさんも特徴的な声しててある意味タイプが限られているわけで。
この「女性が無理して男性役をやるときのヤバみ」には、コントとして何かの鉱脈を感じている。いつかやってみようと思う。

話が逸れた。
やってみた結果、現在の配役(この演目は役が入れ替わりまくるからなんていっていいかわからないんだけど、まぁパート割り)だと、榎並ドンと淺越ブレンダの男女の逆転っぷりが引っかかりすぎて、お話の中身・勘違いの情報の部分が伝わらないんじゃないか?という懸念。
今更だけど部分部分のパート割りを変えようか、と思い始めるそうすると結構な部分が覚え直しになるんですけど。
で、変えてやってみたら、また別の意味で情報を取り落とす気がしてきたから元に戻す。

そして時間になったので本日分終了。

そこから『みんなのへや・改』稽古へ。
冒頭と中盤の、音楽を流す通称「PV」シーンをいかにプロモーションビデオ(ドラマから入るプロモーションビデオってあるじゃないですか)っぽくするか、人物を演じる→ポエムにいかに移行するかを検証。

やっと全キャストが集合したので、ちょこちょこ立ち稽古していたところを頭からさらってみる。

結果、何が何やらさっぱりわからない。
今回の方針として、「シチュエーションコメディあるある」みたいな予定調和さを排して、わりかしリアリティを高めに進行してたんだけど、そうもいかない部分が多い。
リアルな人間としての言動や間のノイズが、積み重なると本当にわけわからなくなる。
読み合わせくらいの俯瞰した、冷静な、淡々と進めていくスタイルに戻らなくてはいけないかもしれない。

せっかく変えた部分がどんどん初演に戻って行きそうな恐れ。
これ、たまにあるんだよな、再演モノで。
ただ、徒労ではないと思う。

でも12時間同じ部屋で入れ替わり立ち替わり稽古は超疲れた。疲労。

『みんなのへや・改』稽古4回目

稽古4回目。

本日から石井智子さんと中田由布さんが参加。
作品について決まってることや演出の方針、あれやこれを説明し、まずはアップがわりに『お父さんをください』でそれぞれのタイプを見る。

今回、女性陣3人…石井智子、江益凛、中田由布のタイプがいい感じにバラバラで楽しい。ま、そりゃ大体バラバラにはなるんだけど。劇団でもそうだし。

そして『みんなのへや』の書き直した前半を立って動いてみる。
この作品、立って、動いて、間取りを意識して練習しないとマジでちんぷん&かんぷんですね。

石井智子さんの演じる小悪魔っぷりが、絶妙にバカみたいな(褒め言葉)小悪魔で、すごく好感を持った。
嘘すぎず、マジすぎす、素直に可愛い部分もあるけど、ギリ「滑稽」のラインに乗ってるのが良い。あとはまだあんまりやってない困らされるところと勘違いしてるところが決まれば大体大丈夫だろうな。

中田由布さんは、あんまり舞台となる部屋には常駐しない、けどキーマン。
年齢不詳感やキャラクターっぽい話し方動き方が(こういう言い方するとあれだけど)とても使えそう。順で使ったり逆で使ったり。

稽古後は最寄りのタイ?ベトナム?料理店で食事。
よく知らないメニューを頼んだら、俺以外全員苦手な盛り合わせが出てきたり、「これ絶対食べるものじゃないでしょ」な具材が入っていたり、その名前がガランガルと言ってモンハンに出てくる固い甲羅を持つモンスターみたいだったりした。モンハンはやったことない。

明日は序盤からバリバリ立ってやっていく。一日稽古だ。

それと同時に『わが家の最終的解決』のプロデュースワークが山積み。
でも京大吉田寮をモデルにした渡辺あやのドラマ『ワンダーウォール』もレンタルしたので配信で見たい。どうしよう。わわわ。

演劇とドラマと感情移入と「近さ」

昨晩は寝落ちしてしまったので今書く。

昨日、箱庭円舞曲『父が燃えない』を観てきた。
今まで見てなかったってのもあるし、こないだご一緒したアナログスイッチの秋本くんが出ているってのもあるし、どうやら活動休止前公演だぞってのもあるけど、それより何より、親の葬儀の火葬場での話だと聞いたからだ。

というモチベーションで観た以上、どうしたって感想は「感情移入」という視点にならざるを得ない。
こないだのエントリで、「母親が亡くなった」「だけどどうにもピンときてない」って書いたので、それとの絡みです。)

噂に聞いていた通り、リアリティのある、でもちゃんと可笑しい、とても良くできた「落ち着いたコメディ」だと思った。
楽しかったのだ。
「演じ分けることでその場にいない人物を描写する・代弁する」っていう表現手法が、「故人の思い出を語り合う」っていう場とシンクロしていたのが興味深かった。
そして、何度も使われていたその手法が、最後の「故人が(その場にいない)子供たちの話をする」に集約されていくのがとてもドラマチックで、必殺技感があって、素敵だった。(余談だけど、俺はこういうクライマックスでちゃんとアガる必殺技がある作品が好きだと最近気づいた)

しかし「自分ごと」として感情移入して観ることはできなかった。

もちろん、感情移入こそが全てだとは思わない。その有無で作品の評価を決めるべきでないってのは同意なんだけど。
でも、今年親を亡くして、でもあんまり現実世界で悲しんだり落ち込んだりできていない人間が、親の葬儀のお芝居を生で観るわけですよ?
そりゃあ感情移入を求めちゃうでしょうよ。

作品として面白かったのは事実。
でも、「あぁ、そういう地方のそういう家庭もあるのね」という、普段通りの家族モノのお芝居を観るモードにしかならなかったのだ。
面白かったのに、感動はしなかったのだ。

それに比べて(比べるべきかどうかは置いといて)、最近見たドラマ『義母と娘のブルース』の第6話や、『アンナチュラル』の各話では、しっかり感動している。それも登場人物に感情移入する形で感動していたのだ。

この差はなんなんだろう?

当然気になる。なぜなら、現状自分がTVドラマの畑の人間じゃなくて、演劇屋の端くれだから。(TVドラマのお仕事もしたいです、はい)

よく、群像劇の芝居を評して「たくさんの登場人物がいるから、どこかに自分を投影できる」と言うことがある。
今回の芝居で言うなら、故人の子どもで男・女・男の兄弟の三番目、秋本雄基演じる前沢望って人物なんか、感情移入し放題に思える。
兄弟の構成もそうだし、家を出て売れない芸術活動に勤しんでるし、めちゃ似てるんだよな、境遇が。しかも知り合いが演じているってこともあるから、当然目がいく。
なのに、彼に感情移入することはなかった。
でもそれは秋本くんのパフォーマンスに問題があったとは思わない。彼はとてもいい仕事をしていたと思う。

では作中の他の人物に没入したかと言うと、そうでもない。
作品自体は楽しんだというのに。

それよりも『義母と娘のブルース』の宮本みゆき(横溝菜帆)や宮本亜希子(綾瀬はるか)、『アンナチュラル』の久部六郎(窪田正孝)や三澄ミコト(石原さとみ)、中堂系(井浦新)の方にバリバリに感情移入して感動してしまった。

この差はなんなんだろう。

俳優の演技の差とか、そういうことじゃないと思うんだよな。
もっと根本の、物語とか、見せ方とか、表現の媒体とか、そういった部分での差。しかもそれは優劣じゃなく好みとか波長に合うとか帯域とかその手のものな気はしてる。

近いと入り込めない説

小劇場の演劇公演/TVでの映像作品
知り合いが演じてる/会ったことない芸能人が演じてる
火葬場の待合室での会話劇(身近で小さい規模)/何事もビジネス目線で処理する鉄壁のキャリアウーマンが義母になる話
火葬場の待合室での会話劇(身近で小さい規模)/不自然死を究明する法医学ミステリー

ドラクエとファイナルファンタジーの違いみたいに、固有のキャラクターとして描きこまれすぎてると自分を投影しづらい、みたいなことなんだろうか。
でもそれで言ったら『父が燃えない』に限らず『義母と〜』も『アンナチュラル』も描きこまれてるわけで。

フィクション度が高いエンターテイメント作品の方が自分を投影しやすいからだろうか。
でもそれで言ったら演劇で「虚構!」って感じの作品あんまり好きじゃないし。

演劇よりTVドラマの方が自己を投影しやすいからだろうか。
うーん…それを認めてしまって良いのだろうか、演劇屋として…!

ちょっとこれは今後も考えていかなくてはいけない気がしてきた。

ちなみに「笑える」って観点で言えば、お笑いだろうとお芝居だろうと圧倒的に生の舞台の方が笑えるんだよな。それは確か。

エクストリーム〜の稽古とか。

『みんなのへや・改』の稽古は休み。
その台本を直し、色々な事務手続きをしていたら夕方に。

たくさん寝たはずなのにやけに疲れていたので、見逃し配信でTVドラマでも見ちゃえ!と思ったら、それすら半ばで昼寝してしまった。
なんでこんな眠いんだ。

そして『エクストリーム・シチュエーションコメディ(ペア)淺越・榎並組』の稽古へ。
そうそう、ここでは書いてなかったけど、下北沢カレーフェスティバル×観劇三昧の合同イベント『路上演劇祭2』というフリーイベントがありまして、アガリスクも出させてもらいます。10月8日(月・祝)。
淺越と榎並が前述の『エクストリーム〜』をやりつつ、総合MCとしてイベントの紹介やら各団体の紹介やら、あとは場つなぎをやるのです。
エクストリームの上演はイベントのトップバッターで11:30〜11:50です。MCは各団体の合間合間に最後まで出てるはず。

詳しくはこちら!

それにしてもトップバッターでこういう情報量の多い・ややこしいネタやって大丈夫かな?とも思うんだけど、野外向きのネタってこのくらいしかないんだよな。演目を始める前にどのくらい「演劇を見る場」にできるかどうかが勝負の分かれ目な気がする。

稽古は2回目か3回目。一週間空くのでセリフを覚えてきてもらって、中身(作中の、普通のシチュエーションコメディ的処理の部分)を細かく練習。

このネタはいかに台本を物語をうまく処理するかではなく、やってる二人の関係性を楽しむ部分が多分にある。だから淺越×榎並の醍醐味を見つけなきゃいけないんだけど、その前に「何をやってるかわかる」を達成しないとね。
特に今回は路上で、意識が散漫になりやすいことが想定されるので、わかりやすさは絶対条件だ。

まだ「この二人なら大丈夫!」っていうマジックはかかってないんだけど、でもなんか楽しそうな気がする。
見世物として考えた時に、榎並の可愛らしさと淺越の女性キャラのブスさが大事になってくるかと。

二人とも耳は良いので(あと言いたいことはわかってるので)「このトーンのこんなニュアンスの言い回し」はすぐ対応できるんだけど、二人とも運動神経がよろしくないんだよなぁ。そこをチャームに転じなくてはだ。

母を納骨してきた話

本日、母を納骨してきた。

SNSで書くかどうか迷ってて(書くべきじゃないとは全然思わないんだけど、必要あるか?と思って)、その都度「今は別の告知ごとがあるから」と先送りにしてきたけど、実は今年の5月に母が亡くなった。

2年前の春頃にガンが見つかり、手術をすることになったのが確か『わが家〜』本番中だったかな。とりあえず術前に立ち会ってから俺は本番があるので劇場に向かい、マチネだけ本番を終えて帰る途中に、電話で「手術ができないレベルになってた」と余命うんぬんの話を聞いた。

長いこと闘病(というと大袈裟か)していて、余命も当初「年で考えない方がいい」と言われてからだいぶ記録更新していたので、本人も覚悟ができていたのかもしれない。それを聞かされていた我々もある程度覚悟はできていたのかもしれない。

こんなこと言うとまたサイコパス扱いされそうなんだけど、正直言うと、悲しいのかどうかわからないまま、ここ5ヶ月ほど過ごしている。

それが覚悟によるものなのか、事実を受け止めきれてなくて悲しむ段になっていないのか、ひたすら俺の感情が鈍くなっているのか、判然としない。
もちろん葬儀の時のいろんな場面や、献身的に世話してくれた担当の看護師さんの語るエピソードなどには感涙することもあったけど、それすら「物語」として感動してるだけなんじゃないの?という気すらしてきて、母親との死別を悲しみっつーか…自分の痛み?として認識できていない。

3ヶ月くらいの間、亡くなった母親が住んでたマンションで暮らしたんだけど、その時には認識できなかった。
その後引っ越して、遺影や位牌とも離れて過ごしても、認識できなかった。
で、納骨してひととおりの儀式が一段落した今になっても、認識できていない。

いや、もうほんと。
じゃあいつなんでしょうね。

皆が皆、同じようなタイミングで同じように悲しまなければいけない、と思ってるわけでもないし、「人それぞれでいいんだよ」なんてのはわかってる。
悩んでるわけでもない。
でも、なんというか、この現時点での消化不良感を言語化して残しておかないといけないな、と思ったのだ。

ちなみに納骨は千葉の山奥で樹木葬で行った。
幼稚園教諭をしながら自然科学系の教育に熱心だった母の意思によるものだ。
「戒名とかいらない」「お寺とのお付き合いとかしなくていいわよ」派の母の意見にはマジ同意なんだけど、そこらへんの考えを抜きにしても、とてもいい場所だった。
春には山桜が咲いて、夏には近くの河原に野生の蛍がいるらしい(ホントに千葉かよ)。
職員の人もお墓の人ってより環境保護のプロって感じで、今日なんかは動植物の話を聞いている時間の方が長く「あれ、理科の授業かな?」と思ったほどだ。

いい話で締めたいわけでもないし、悲しんでない理由をそこに求めるわけでもないんだけど。

超親不孝者だったけど、最後の最後に「よかった」というか「ギリ間に合った」ということが二つある。
最新の作った芝居を見せられたことと、最後にちょっとだけ一緒に暮らせたことだ。

母は劇団の公演をいつも見にきてくれていて、ほぼ唯一の旗揚げ公演から見てるお客さんだった。
で、1月2月と入退院を繰り返している中で、なんとか具合が良くなって奇跡的に2月の『卒業式、実行』を見に来ることができたのだ。
もはや見に行くのが目的化してたかもしれないから、正直どのくらい作品として楽しんでくれたのかは今となってはよくわからないけど(基本うちの母の評価は甘い)「見に来れてよかった」と言ってたので、良かった。

その後、再度入院することになり、母が飼っていたウサギの世話を兼ねて、公演を終えた暇人かつノマドな俺が母のマンションに住むことになった。
そしてそこに母が退院してきて、もしもの時に備えて一緒に住むことになったのだ。
結果的に10日くらいしか一緒にいなかったけど、20歳で実家を出て以降、久しぶりに一緒に寝食を共にできたのは良かった(あ、寝食でもないか、向こうは寝てる時間多かったし、ほとんど固形物も食べなかったから)。
今にして思うと、末期ガンの母親が寝ている部屋のすぐ隣の納戸で、机を持ち込んでくだらないコントを書いているのはとても興味深いシチュエーションだと思う。お芝居っぽいよね。

そんなこんなで、特にオチがあるわけでも結論があるわけでもない。
もっと「母への愛」みたいなのを書けたらいいんだけどね(ちなみに屈折してるわけでもギクシャクしてたわけでもない、むしろ仲はいい)。
でも、今そういうノリじゃないんだよなぁ。
なので、現時点ではこんな感じ、というのを書いてみた。

あ、そうそう。今度やる『わが家の最終的解決』は、手術があったので唯一母に見せられなかった演劇公演なんだよな。
再演するんだけどな、ちょい間に合わなかった。